コラム
カンテの基礎知識

 
フラメンコの基礎知識 
(37)カンテの歴史と流行 <カンテを聞ける場所は?>

2019年6月2日アップ

 
前回は伴奏楽器のお話しでした。
結構意外だって思われたかもしれませんね。
 
伴奏楽器を決定する要因のひとつでもあるとお話ししたカンテのライブ会場、
これも時代とともに大きく変化したので、まとめてお話ししたいと思います。
 
最初にカンテ(まだカンテとは呼ばれてなかったのですが)が
人前で披露されたのは、1893年へレスの劇場だったと言われています。
同時にマドリッドやセビージャなどの都市部にはライブハウスが出来はじめ、
20世紀初頭には、カンテはライブハウスの人気演目に成長しました。
ところが、ライブハウスでのカンテ人気に目をつけた
反社会的勢力のみなさんによって、
カンテはどんどん<ヤバい芸能>というイメージが付いて行ってしまい、
わずか20年ほどでその人気も終わってしまったんです。
 
でも、その後、オペラフラメンカと名前を変え、
大劇場で公演を行うことによって、
安全で高尚な芸術であるとのイメージチェンジ戦略に成功、
お酒を飲まずにカンテを楽しむ文化が育ちました。
 
まあ、そんな第2次カンテブームも、1950年ごろには陰りを見せ、
カンテは、またライブハウスに戻って行ったんです。
 
ただその頃、カンテを聞く機会に大変革が起きます。
当時大人気だった地方での巡回映画との抱き合わせのフィルムコンサートです。
 
ライブハウスや劇場は都会にしかないので、
村々の農民たちにはカンテはまだ身近ではなかったのですが、
その当時流行っていた、村の小学校の体育館などを利用した巡回映画の、
1本目と2本目の間のつなぎとしてカンテを数曲はさむことにより、
カンテ人気は一気にアンダルシアの隅々まで浸透し、
農民たちに愛される歌になったんです。
 
もちろん、農民たちも大好きなフラメンコ歌手の歌を、
映像ではなく生歌で聞きたいと思ったので、
現在でも行われている夏の夜のカンテフェスティバルに繋がって行きました。
 
まだアンダルシアの一般家庭には、そこまでテレビも普及してなかったので、
自分たちの村まで来てくれるカンテコンサートは、
村人たちにとっては、夏の一番の楽しみにまで成長し、
カンテ人気を不動のものにしていったのです。
 
その後、テレビの普及とともに、フラメンコ専門番組も多く生まれ、
カンテは様々なメディアの大人気コンテンツになりました。
 
ちなみに、巡回映画時代の大スターが、マノロ・カラコール。
今でも当時のカンテ映像のフィルムが残っています。
(当時のフィルムの映像が、
そのままYOUTUBEなどにも上がっているんです。)
 
他の芸能や音楽と同じように、
カンテは人気がある時は大劇場でコンサートが行われ、
テレビでもカンテ専門番組が多く放映されるんですが、
人気が下火になると、コンサート会場も小さくなり、
テレビでと言うよりは、ラジオのコンテンツになってしまいました。
 
人気に左右されながらも、臨機応変に形を変えカンテは現在まで生き続け、
現在はカンテ専門のテレビ番組はほとんどないのですが、
コンサートでは、集客もよく大劇場をいっぱいにするフラメンコ歌手もいます。
 
以前は、バイレはマドリッド等の大都会で人気があったものの、
カンテはアンダルシアの方が集客がよかったんです。
 
でも、現在ではアンダルシアよりマドリッドほうが、
カンテも動員力があります。
 
その背景には、伴奏楽器の時もお話ししたように、
他ジャンルの音楽とのコラボによって、
より音楽性の高い演奏が行われれるようになり、
耳が超え、好奇心の強いマドリッドのお客さん達を
満足させられるようになったからなんじゃないか?と私は思っています。
 
   
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前回は伴奏楽器のお話しでした。結構意外だって思われたかもしれませんね。
 
伴奏楽器を決定する要因のひとつでもあるとお話ししたカンテのライブ会場、これも時代とともに大きく変化したので、まとめてお話ししたいと思います。
 


 
最初にカンテ(まだカンテとは呼ばれてなかったのですが)が人前で披露されたのは、1893年へレスの劇場だったと言われています。
 


 
同時にマドリッドやセビージャなどの都市部にはライブハウスが出来はじめ、20世紀初頭には、カンテはライブハウスの人気演目に成長しました。
 


 
ところが、ライブハウスでのカンテ人気に目をつけた反社会的勢力のみなさんによって、カンテはどんどん<ヤバい芸能>というイメージが付いて行ってしまい、わずか20年ほどでその人気も終わってしまったんです。
 


 
でも、その後、オペラフラメンカと名前を変え、大劇場で公演を行うことによって、安全で高尚な芸術であるとのイメージチェンジ戦略に成功、お酒を飲まずにカンテを楽しむ文化が育ちました。
 


 
まあ、そんな第2次カンテブームも、1950年ごろには陰りを見せ、カンテは、またライブハウスに戻って行ったんです。
 


 
 
ただその頃、カンテを聞く機会に大変革が起きます。当時大人気だった地方での巡回映画との抱き合わせのフィルムコンサートです。
 


 
ライブハウスや劇場は都会にしかないので、村々の農民たちにはカンテはまだ身近ではなかったのですが、その当時流行っていた、村の小学校の体育館などを利用した巡回映画の、1本目と2本目の間のつなぎとしてカンテを数曲はさむことにより、カンテ人気は一気にアンダルシアの隅々まで浸透し、農民たちに愛される歌になったんです。
 


 
もちろん、農民たちも大好きなフラメンコ歌手の歌を、映像ではなく生歌で聞きたいと思ったので、現在でも行われている夏の夜のカンテフェスティバルに繋がって行きました。
 


 
まだアンダルシアの一般家庭には、そこまでテレビも普及してなかったので、自分たちの村まで来てくれるカンテコンサートは、村人たちにとっては、夏の一番の楽しみにまで成長し、カンテ人気を不動のものにしていったのです。
 


 
その後、テレビの普及とともに、フラメンコ専門番組も多く生まれ、カンテは様々なメディアの大人気コンテンツになりました。
 


 
ちなみに、巡回映画時代の大スターが、マノロ・カラコール。今でも当時のカンテ映像のフィルムが残っています。
(当時のフィルムの映像が、そのままYOUTUBEなどにも上がっているんです。)
 


 
他の芸能や音楽と同じように、カンテは人気がある時は大劇場でコンサートが行われ、テレビでもカンテ専門番組が多く放映されるんですが、人気が下火になると、コンサート会場も小さくなり、テレビでと言うよりは、ラジオのコンテンツになってしまいました。
 


 
人気に左右されながらも、臨機応変に形を変えカンテは現在まで生き続け、現在はカンテ専門のテレビ番組はほとんどないのですが、コンサートでは、集客もよく大劇場をいっぱいにするフラメンコ歌手もいます。
 


 
以前は、バイレはマドリッド等の大都会で人気があったものの、カンテはアンダルシアの方が集客がよかったんです。でも、現在ではアンダルシアよりマドリッドほうが、カンテも動員力があります。
 


 
その背景には、伴奏楽器の時もお話ししたように、他ジャンルの音楽とのコラボによって、より音楽性の高い演奏が行われれるようになり、耳が超え、好奇心の強いマドリッドのお客さん達を満足させられるようになったからなんじゃないか?と私は思っています。
 
   
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